image: 図1 : 25 °Cの水溶液中のミオグロビンのヘムのN K吸収端XASスペクトル。(a) oxyMb, (b) deoxyMb, (c) metMbのポルフィリン環のC=N π*ピークと分子構造を示す。内殻励起計算との比較により、異なる状態のヘムのスピン状態を明らかにした。
Credit: 長坂 将成
【発表のポイント】
- ・ N K吸収端の軟X線吸収分光(XAS)測定(1)と内殻励起計算(2)を用いて、室温の水溶液中のミオグロビン(3)のヘム(4)のスピン状態(5)を観測した。
- ・ ヘムのポルフィリン環のC=N π*ピーク(6)は、ミオグロビンのポリペプチド鎖に含まれる窒素原子のピークと分離して観測できることを発見した。
- ・ 室温の水溶液中で、オキシミオグロビンは低スピン状態を示すのに対して、デオキシミオグロビンとメトミオグロビンはスピン平衡状態になることを見い出した。
- ・ ヘムタンパク質のスピン状態は温度やポリペプチド鎖の影響を受けるため、機能を発現した状態のヘムタンパク質のその場測定が重要であることを示した。
【概要】
自然科学研究機構 分子科学研究所/あいちシンクロトロン光センターの杉本泰伸研究員、理化学研究所計算科学研究センターの水流翔太特別研究員、自然科学研究機構 分子科学研究所/総合研究大学院大学の長坂将成助教の研究グループは、ポルフィリン環のN K吸収端の軟X線吸収分光測定と内殻励起計算により、室温の水溶液中のミオグロビンのヘムのスピン状態の観測に成功しました。ポルフィリン環のC=N π*ピークが、ポリペプチド鎖に含まれる窒素原子の寄与に埋もれることなく観測されることを発見しました。解析により、ミオグロビンに代表されるヘムタンパク質のスピン状態は温度やポリペプチド鎖の影響を受けるため、機能を発現した状態でのその場測定が重要なことを示しました。
本研究成果は、国際学術誌『Physical Chemistry Chemical Physics』に、2026年8月24日付でオンライン掲載されました。
1.研究の背景
代表的なヘムタンパク質の一つであるミオグロビンは、1分子のヘムと1本のポリペプチド鎖により構成され、筋肉中で酸素を結合して貯蔵・運搬することが知られています。ミオグロビンの活性中心であるヘムはポルフィリン環と鉄イオンの錯体であり、スピン状態、酸化数、配位数の変化を繰り返して、酸素運搬を担います。図1に示すように、デオキシミオグロビン(deoxyMb)のヘムは、中心金属がFe2+イオンの五配位錯体です。オキシミオグロビン(oxyMb)のヘムは、中心金属がFe2+イオンで酸素分子が結合した六配位錯体です。メトミオグロビン(metMb)のヘムは、中心金属がFe3+イオンで水分子が結合した六配位錯体です。これまでヘムのスピン状態は様々な研究方法で調べられてきましたが、統一した見解は得られていません。ヘムのスピン状態はヘムとポリペプチド鎖の相互作用により影響を受けますので、ヘムタンパク質が機能を発現した状態でのその場測定が必要です。研究グループは、ヘムのポルフィリン環のC=N π*ピークが金属-配位子間の非局在化(7)により、スピン状態の変化を反映することに着目して、室温の水溶液中のミオグロビンのN K吸収端XAS測定を行うことを着想しました。XAS測定の結果を内殻励起計算と比較することで、スピン状態のその場測定を目指しました。
2.研究の成果
ミオグロビン水溶液のXAS測定は、自然科学研究機構 分子科学研究所UVSORの軟X線ビームラインBL3Uに、研究グループが開発した溶液XAS測定システム(8)を接続することで行いました。図1に25 °Cの水溶液中のミオグロビンのN K吸収端XASスペクトルを示します。ミオグロビンヘムのポルフィリン環由来のC=N π*ピークの位置は400.0 eV付近であり、ポリペプチド鎖に含まれる窒素原子に帰属される401.4 eVのピークとは分離して観測されることを発見しました。
図1 : 25 °Cの水溶液中のミオグロビンのヘムのN K吸収端XASスペクトル。(a) oxyMb, (b) deoxyMb, (c) metMbのポルフィリン環のC=N π*ピークと分子構造を示す。内殻励起計算との比較により、異なる状態のヘムのスピン状態を明らかにした。
次に、内殻励起計算と比較することで、ポルフィリン環のC=N π*ピークから、ヘムのスピン状態を求めました。その結果、oxyMbは一つのC=N π*ピークで構成されていて、低スピン状態(S = 0)になることが分かりました。一方、deoxyMbとmetMbは2つのC=N π*ピークで構成されます。deoxyMbはS = 2とS = 1のスピン平衡状態になります。低エネルギー側のC=N π*ピークの強度が高エネルギー側のピークよりも大きいことから、deoxyMbではS = 1と比較して、S = 2のスピン状態の方が多いことが分かりました。metMbはS = 5/2とS = 3/2のスピン平衡状態になります。高エネルギー側のC=N π*ピークの強度が低エネルギー側のピークよりも大きいことから、metMbではS = 5/2と比較して、S = 3/2のスピン状態の方が多いことが分かりました。以上のように、ポルフィリン環のC=N π*ピークは、ヘムの金属-配位子間の非局在化により、そのスピン状態を反映することが確かめられました。室温の水溶液中のdeoxyMbとmetMbのスピン平衡状態は、温度、溶媒の配位、ポリペプチド鎖との相互作用などの様々な要因により成り立つため、ヘムタンパク質が機能を発現する状態でのその場測定が重要であることが分かりました。
3.今後の展開・この研究の社会的意義
タンパク質中のヘムのN K吸収端XAS測定は、ポリペプチド鎖に含まれる窒素原子の寄与により不可能であると考えられてきました。本研究において、N K吸収端XASスペクトルにより、ヘムのポルフィリン環とポリペプチド鎖の電子状態を分離した観測が可能であることが示されました。今後、本測定手法により多くのタンパク質のヘムの電子状態とスピン状態の解析が行われると期待されます。N K吸収端XAS測定によるヘムタンパク質のスピン状態のその場測定はこれまでに例がなく、酸素結合の他にも電子伝達や反応触媒などの多様な機能を持つヘムタンパク質の研究分野において、飛躍的な発展が期待されます。
4.用語解説
(1) 軟X線吸収分光(XAS)測定
2 keV以下の軟X線を試料に照射して、その透過量を測定する手法である。軟X線照射により、C, N, Oなどの軽元素の内殻電子が励起されるため、元素選択的に物質の電子状態を調べることができる。例えば、N 1s電子が励起される光エネルギー領域をN K吸収端と呼び、窒素原子周辺の電子状態を調べることができる。また、Mn, Fe, Coなどの遷移金属の2p電子が励起される光エネルギーをL2,3吸収端と呼び、金属錯体の中心金属の電子状態を調べることができる。測定には高強度の軟X線が必要なため、一般的に軟X線吸収スペクトルは、加速器が生み出す放射光を用いて測定される。
(2) 内殻励起計算
XASスペクトルに対応する内殻励起スペクトルを、目的の分子構造から量子化学計算により求める手法である。モデル構造ごとに内殻励起スペクトルを得られるので、実験で得られたXASスペクトルと比較することで、溶液中の分子構造を調べることができる。
(3) ミオグロビン
代表的なヘムタンパク質の一つであり、1分子のヘムと1本のポリペプチド鎖により構成される。初めて構造が明らかにされたタンパク質である。
(4) ヘム
ポルフィリン環と鉄イオンの錯体である。deoxyMbは中心金属がFe2+イオンの五配位錯体である。oxyMbは中心金属がFe2+イオンで酸素分子の結合した六配位錯体である。metMbは中心金属がFe3+イオンで水分子の結合した六配位錯体である。
(5) スピン状態
電子は上向き(+1/2)と下向き(−1/2)の2つのスピン状態をとる。1s軌道などの一つの軌道には、上向きと下向きのスピンをもつ電子が、それぞれ1つずつ入ることができる。電子の存在する全ての軌道に2つの電子が入っている場合には、一重項状態のS = 0になる。下向きスピン電子と対を成さない上向きスピンの電子が2つ存在する場合には、三重項状態のS = 1になる。スピン状態が変わると、その物性も大きく変化する。
(6) ポルフィリン環のC=N π*ピーク
ヘムのポルフィリン環のC=N π*ピークは、配位子のC=N基の窒素原子の内殻電子(1s軌道)が、C=Nのπ*軌道に励起する過程に対応する。配位子のπ*軌道は中心金属の3d軌道と分子軌道をなすので、ポルフィリン環のC=N π*ピークを通じて金属錯体の金属-配位子間の非局在化の影響を調べることができる。
(7) 金属-配位子間の非局在化
金属錯体において、金属の3d軌道と配位子である窒素原子の2p軌道が分子軌道を成すことにより、その電子密度分布が非局在化することをいう。金属錯体の配位数や中心金属の種類や酸化数により、金属-配位子間の非局在化の状態は異なる。
(8) 溶液XAS測定システム
軟X線は大気や液体に強く吸収されるため、溶液のXAS測定を行うには、液体層の厚さを数マイクロメートル以下にする必要があり、測定が非常に困難であった。長坂らは、分子科学研究所UVSORにおいて、液体層を2枚のSi3N4膜(100 nm厚)で挟んで、その厚さを精密に制御する方法を独自に開発することで、溶液のXAS測定を実現した。N K吸収端XAS測定の場合には、SiC膜(100 nm厚)を用いる。現在、分子研UVSORと高エネルギー加速器研究機構フォトンファクトリーに、開発した溶液XAS測定システムを設置している。
5.論文情報
掲載誌:Physical Chemistry Chemical Physics
論文タイトル:
"Spin states of myoglobin heme iron in aqueous solutions at room temperature probed from porphyrins using nitrogen K-edge X-ray absorption spectroscopy"
(「ポルフィリン環の窒素K吸収端X線吸収分光測定による室温の水溶液中のミオグロビンのヘムのスピン状態の観測」)
著者:Yasunobu Sugimoto, Shota Tsuru, and Masanari Nagasaka
掲載日:2026年8月24日(オンライン公開)
DOI:https://doi.org/10.1039/D6CP00764C
6.研究グループ
自然科学研究機構 分子科学研究所
理化学研究所 計算科学研究センター
あいちシンクロトロン光センター
7.研究サポート
本研究は、科研費(基盤研究(B):JP25K03396, 基盤研究(C):JP25K00248)の支援の下で実施されました。軟X線分光実験は、自然科学研究機構分子科学研究所共同利用研究(課題番号:24IMS6612)により実施しました。可視紫外分光実験は、文部科学省「マテリアル先端リサーチインフラ」事業(課題番号:JPMXP1223MS5001)の支援を受け、自然科学研究機構分子科学研究所で実施しました。計算は自然科学研究機構岡崎共通研究施設・計算科学研究センターを用いました(課題番号:25-IMS-C226)。
8.研究に関するお問い合わせ先
長坂 将成(ながさか まさなり)
分子科学研究所/総合研究大学院大学 助教
TEL:0564-55-7394 FAX:0564-55-7493
E-mail:nagasaka_at_ims.ac.jp(_at_は@に変換してください。)
9.報道担当
自然科学研究機構 分子科学研究所 研究力強化戦略室 広報担当
TEL:0564-55-7209 FAX:0564-55-7340
E-mail:press_at_ims.ac.jp(_at_は@に変換してください。)
総合研究大学院大学 総合企画課 広報社会連携係
TEL:046-858-1629
E-mail:kouhou1_at_ml.soken.ac.jp(_at_は@に変換してください。)
理化学研究所 広報部 報道担当
TEL:050-3495-0247
E-mail:ex-press_at_ml.riken.jp(_at_は@に変換してください。)
Journal
Physical Chemistry Chemical Physics
Method of Research
Experimental study
Subject of Research
Not applicable
Article Title
Spin states of myoglobin heme iron in aqueous solutions at room temperature probed from porphyrins using nitrogen K-edge X-ray absorption spectroscopy
Article Publication Date
24-Aug-2026